江戸東京野菜について

青茎三河島菜

 三河島の地名の由来は諸説あります。三つの川に挟まれた島のような地形だったからという地形説。太田道灌とも知己である木戸三河守という豪族がいたからという人名説。徳川家康が江戸に入府したのが、天正18年(1590)。家康は尾張、遠州、駿河などにいた配下の商人から農民までも江戸に連れてきたという。その中で三河の百姓を入植させた地を三河島(現・荒川区尾久周辺)と名付けたとの説があります。しかし、三河島とは江戸時代以前からある由緒ある地名だそうですから三河の農家を連れてきたという話は後日付け加えられたのではないでしょうか。江戸時代の三河島は江戸近郊の農村地帯でした。そこで栽培されたのが三河島菜であり、代表的な漬け菜として江戸の食文化を支えました。しかし、白菜の普及とともに市場での扱いが激減していき、いつしか生産が途絶えてしまいました。白菜に駆逐された形となった三河島菜は絶滅したと考えられていましたが、江戸時代に仙台藩の足軽が参勤交代の際に江戸から地元に持ち帰り、現在でも宮城県内で栽培され、仙台朝市などで販売されていることが平成22年(2010)に判明しました。それが仙台伝統野菜のひとつ「仙台芭蕉菜」であり、在来種である青茎の三河島菜にあたることが最近になって古文書により確認され、里帰り復活することとなりました。
 また、東京都農業試験場に残されている細密画では白茎の三河島菜が描かれていますが、もとは青茎であり、白茎は明治以降に改良されたものであった事も分かりました。

代表的な取り扱い地区のJA

JA東京みらい http://www.ja-tokyomirai.or.jp
JA東京むさし http://www.jatm.or.jp/