江戸東京野菜について

ミツバ(小山田ミツバ・白ミツバ)

小山田ミツバ

 「冬でも現金収入が得られる作物はないものか」東京府南多摩郡忠生村上小山田(現在の町田市上小山田町)の田中庫三が、大正2年の冬、「神奈川県の平塚では真冬に″もやしミツバ″をつくっていることを知り、30キロ先の平塚で温床式のみつば軟化法を学んだ。
 養蚕と米麦が、主体の農家にとって、軟化のための温床管理は難しく、大正4年、地熱を逃さず、しかも太陽熱を有効に導きいれる軟化穴の手法を完成し、12月に切りミツバを「小山田ミツバ」として販売を始めた。
 今日、軟化穴から、軟化室に変わったが、切りミツバを「小山田ミツバ」として販売されている。

代表的な取り扱い地区のJA

白ミツバ

 昭和8年は、暑さが厳しく、干ばつの年だった。
 この年に土の伝染病と云われるバイラス病が発生して、練馬大根の葉が縮れて成長しない、根も成長しないと云う状況になった。
 バイラス病はあちこちに伝染して、昭和11年頃には、東京中の農地に広がり、練馬大根は消滅寸前まで行ってしまった。
 農業改良普及員などの情報から、日陰の所で作ったものは、生育が良いと云うので、陸稲や麦、蕎麦に根ミツバ等を間作に栽培を行った。
 練馬ダイコンは、12月に引き抜いて干し大根にするが、間作の根ミツバは30〜40㎝にもなり影をつくり、三つ葉の香りが虫よけにもなるなど、ダイコンの生育に効果があったという。
 大根を引き抜いた後に、ミツバを掘り起こし、半地下の溝に入れて促成栽培を行った。
 溝には、落ち葉などを入れて踏み込むことで、発酵熱が発生し、1月末には1回目の切りミツバを、白ミツバとして神田市場の促成部に出荷したが、良い値で売れたと云う。
 ミツバ栽培は、板橋区中台地区の南斜面の温かい所での栽培は盛んで、練馬でも栽培されていた。

代表的な取り扱い地区のJA

 主な取り扱いJAはなし